江戸時代金貸し

江戸時代の金貸しについてご紹介しましょう。

江戸時代では「金銭」を売買する両替商が存在していました。両替商というのが現代の金貸しです。 大坂の『鴻池屋(鴻池家)』、江戸の『越後屋(三井家)』が代表的です。

しかし、実は両替商の先駆けは天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛という大坂の商人で、 鴻池や三井は両替商の元祖ではなかったようです。 また、江戸時代には百姓相手の金貸しがいました。 百姓は高い年貢率を支払わなくていけませんでした。

しかも年貢を支払えば後は必要経費しか残らないため、田畑は担保価値がなく、家族を担保に借金をする以外方法がなかったのです。 しかし、1660年代以降になると田畑に担保価値が生まれ、田畑を担保にできるようになったのです。

借金の担保となった家族や田畑は貸主に自由に使われ、 その利益で利子が支払われたため借主は元金さえ返せばよかったのです。

国際金融資本家=世界経済を動かす金貸しとの結びつきを中心に、江戸時代における金貸し支配史を紹介していきます。

世界史と日本史を融合する形で、暗記だけの学校教育とは違う因果関係を明らかにしながら分析していきたいと思います。 江戸時代は、長崎の「出島」を除いて海外との貿易がない鎖国状態だったと学校教育で習ってきました。

鎖国の最中であるにも関わらず、長崎の出島などは一体なんのために存在していたのでしょうか?江戸幕府が成立した1603年当時、世界はどのように動いてたのでしょうか。

ヨーロッパの大航海の動機付けは、冨収奪のための植民地拡大=市場拡大そのものだったわけだが、江戸の開幕前後に焦点を当ててみると、ポルトガル・スペイン・イギリス・オランダと欧州各国が入り乱れて日本にやってきています。

1641年の鎖国完成以降、「出島」での貿易権を獲得したのはオランダであって、この時代、どうして各国がこぞって日本(や他のアジア諸国)にやってきて、貿易を始めようとしたのか、その意図はどこにあったのか?に迫ってみます。

背景

~江戸以前~

 欧州はなぜ日本に来たのか? 1517年 「九十五ヶ条の論題」を発表したドイツのルターによって始まった宗教改革は、教会の政治的干渉や財政の搾取等、腐敗していたカトリック教会への批判として、欧州全土に遡及していく。新たな宗派として誕生したプロテスタント(新教徒)が生まれ、欧州の宗教的分裂は、16世紀後半には大きなものとなっていきました。

※このカトリック(旧教徒)教の代表的国家がスペイン、ポルトガル、フランスだった(1542年日本に来たイエズス会のザビエルもポルトガル人)。一方、オランダ(ネーデルラント)、イギリスはプロテスタント国家の代表だった。 劣勢となったカトリック国が、欧州以外での布教を目指し、先行して欧州を追われる形となった結果、スペイン・ポルトガルは海外に出向いていきます。

インド・東南アジアへの大航海の目的は、宗教の布教以外にもあった。一つは当時の欧州で、肉の保存料として必需品だった胡椒などの香辛料(胡椒・シナモン・ナツメグなど)を、インドや東南アジアに出かけて直接手に入れることだった。2つ目の目的として、金・銀の獲得もあった。 このキリスト教の「布教」と市場拡大の「貿易」を目的とした大航海は、不思議な取り合わせで実現してきます。

宣教師たちは、自前で渡航できるわけではなかった。彼らは、カトリックの布教、教会の勢力拡大という目的を果すためには、商人たちの「商船」に乗せてもらうしかなかったのだ。また商人にとっても宣教師がキリスト教を布教してくれた方が貿易交渉が捗るため、商人にとっても宣教師を支援することは利益になりました。

1543年種子島への鉄砲伝来が示すように、商人たちは武器や火薬、装飾品といったものを貿易品としていたが、それに留まらず奴隷貿易も行っています。

戦国時代の日本では、鉄砲・火薬の需要は高かったが、戦乱の元では輸出品がない。そこで、日本人女性を性奴隷として受取り、欧州に送っていたという(戦況下、捕虜とした敵の女を売り飛ばした)。その数は50万人にも及ぶようです。


昔の金貸し

1543年、種子島に漂着したポルトガル商人によりもたらされた鉄砲が30年後には織田信長により集中利用され、戦国時代を収束した。信長が堺の支配にこだわったのはマカオから堺にもたらされる硝石を独占するためなのです。

その決済には、何と日本人が奴隷として、輸出されていたようだ。天正15年(1587年)6月18日、信長の後継者豊臣秀吉は宣教師追放令を発布した。その一条の中に、ポルトガル商人による日本人奴隷の売買を厳しく禁じた規定があります。

日本での鎖国体制確立への第一歩は、奴隷貿易の問題に直接結びついていたことがわかる。 つまり、宣教師による布教活動は、(奴隷)商人の活動と表裏一体であり、市場拡大を刷る上で両者の利害は一致していたのだ。これが南蛮貿易の実態です。