ユダヤ人金貸し

「ベニスの商人」に出てくる悪役のユダヤ人のように、実は中世ヨーロッパでは多くのユダヤ人が高利貸しを生業としていたのです。 しかし、ユダヤ人はユダヤ教の教えを厳しく守る人たちなのですが、 ユダヤ教では利子の徴収は原則として禁じられていたのです。

尚、キリスト教やイスラム教もまた、利子を禁止されております。 しかし、ユダヤ教は例外として異教徒(外国人)から利子をとることは許していた事実があります。

当時、バチカンのキリスト教会がユダヤ人をほとんどの職業から追放した11世紀では、数少ない収入源として残ったのが、高利貸し(質屋)や金塊の保管人、両替商(貿易決済業)など、利子を取り扱うことが多い金融業しかユダヤ人には残っていなかったのです。

そのため、ユダヤ人の金融業者たちは銀行、為替、保険、証券、債券といった現在の金融業態のすべてに古くからかかわり、金融システムの構築に貢献したことになります。

中世イタリアのユダヤには、他の西欧諸地域とくらべて大きな違いがあります。それは他国のような大規模な追放がなかったことです。小規模な迫害や追放はありましたが、イギリス、フランス、スペインのような組織的な追放はイタリアでは起こりませんでした。

そしてもうひとつ、ユダヤ人が金貸しに専業化していくのは13世紀以降でした。ユダヤ人=金貸というイメージがあり、それは13世紀以降、短期間に顕著になる現象です。

イタリアは英仏などと対照的で、13世紀末、とくに14世紀以降、北イタリアでは、キリスト教徒は消費者金融から一斉に撤退します。これによって生じた空白を埋めるため、ユダヤ人金融業者が中部イタリア、ローマなどから呼ばれました。

ユダヤ人と 「協定」を結び、ユダヤ人もこれに従って各都市に定住し金融業を営んでいました。「協定」は営業期間、場所、内容を規定し、一定年数ごとに更新されています。

ユダヤ人金融業者は、ローマからイタリアへ進出し、小都市や村落にまで広まりました。ユダヤ人金融はボローニャにおいてよく解明されています。15世紀後半、中・北部に定着したユダヤ人の運命に転機がおとずれる。 この頃、フランチェスコ会厳修派の説教師は、高利で貧民を苦しめるユダ ヤ人というイメージを説教によってさかんに説き、民衆の反ユダヤ感情煽っています。


ユダヤの金融体制

同時に彼らはユダヤ人金融に代わる手段としてモンテ・ディ・ ピエタという公益質屋の設立を提案した。そして低利ながら利子を徴収するモンテを擁護するため、彼らは伝統的な徴利禁止論を克服する論理を生み出しました。

以後、中・北部の都市は、一時的にユダヤ人を追放することはあったものの、多くの場合、ユダヤ人銀行とモンテという二重の 金融体制を有するようになっていく。 16世紀以後、イタリア・ユダヤ人社会はスペインからのセファルディー ム到来とゲットー創設によって、新たな変容を蒙ることになるが、これは別の課題です。